高野山真言宗 宝満寺 - お寺の紹介 -


宝満寺は正式な名称を「吉祥山 多門院 宝満寺
(きっしょうざん たもんいん ほうまんじ)」
といいます。

 所属している宗派は「高野山真言宗」で、本山は和歌山県の高野山にある高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)です。

 真言宗の開祖は「お大師さん」として親しまれている
弘法大師・空海上人です。




 宝満寺の開山創立は、平安時代中期の天徳2(西暦954)年といいますから、紫式部が『源氏物語』を書いた時よりも50年ほどさかのぼります。

 念仏聖(ねんぶつひじり)あるいは市聖(いちひじり)として知られる空也(くうや)上人によって創立されたと伝えられています。

 空也上人は一般庶民の間に入って念仏を唱えながら遍歴遊行(へんれきゆぎょう)し、浄土教を広められた方で、真言宗の僧侶ではありませんが、宗派の違いといっても今ほど明確でなく、ごくゆるやかなものであったと思われます。




 創立の場所は現在の西方(にしがた)ではなく、「丹後の国南有路(みなみありじ)吉祥が丘」だったといいます。南有路から西方方面へ抜けるところに「古路(ふるじ)峠」という峠道があり、その峠の登り口に「才の神の藤」として知られる藤の古木があります。

 樹齢2000年ともいわれる大木で、毎年5月初旬にはみごとな紫の花房が無数に垂れ下がり、盛大に「藤祭り」が開かれます。「吉祥が丘」はその藤のところから山手に登った上の方にあったようです。




 その後、室町時代、京都は応仁の乱の渦中にあった文明7(西暦1475)年、宝満寺は「丹波国西方村」の現在地に移転しましたが、やがて人心は離れ伽藍は荒廃していったようです。

 さらに時は下って江戸時代、江戸は元禄文化華やかなころ、元禄4(西暦1691)年に俊英上人という人が出て、荒れて名のみとなっていた寺を復興しました。

 人々の協力を得て本堂を新築するなど伽藍を一新するとともに、村人からの信頼を回復して宝満寺中興の祖となりました。

 現在の位牌堂(方丈)は平成11年に改築竣工したものですが、木造茅葺きの旧位牌堂(方丈)は、俊英上人による復興がきっかけとなって、宝永5(1709)年に企画・着手され、52年の時を経て宝暦11(1761)年に完成したと推察されます。

それ以来、改築に至るまで約250年の星霜を経ていたわけです。




 明治維新を経て時代は近代へと移っていきますが、「廃仏棄釈」の時代背景もあってか住職のずさんな寺院経営に人々の心は離れ、再び宝満寺は荒廃の縁にありました。

 そのころ、鍛冶屋の普門院から大恵(だいえ)上人が新住職として赴任し、人々の信頼を得て再興をなしとげました。その過程で、現在の建物のさらに裏手にあった俊英上人建立の老朽化した本堂を改築、完成し、いよいよ竣工を迎えようとしていた矢先、失火によってその新本堂が全焼するという不運に見舞われます。

 明治22年のことでした。しかし、檀家の方々を始め多方面の援助によって焼失した本堂(毘沙門堂)を今ある場所に移転して再々建、現在に至っています。


 御本尊の毘沙門天(びしゃもんてん)に対する人々の信仰は、古い書物(『雲萍雑誌』)の記述によってもうかがい知ることができますが、それ以前に、まず村の人々、地域の人々の信頼を得て初めて、お寺は信仰の場としても交流の場としても成り立つのだということを、宝満寺盛衰の歴史は物語っています。