「顕彰する会」ニュース

03年1月18日更新


和喜蔵顕彰碑に献花する参加者(02.12.7) 


顕彰碑前に供えられた和喜蔵の著作


展示された和喜蔵関係の資料に見入る参加者


閉会の挨拶



          02年度 細井和喜蔵碑前祭 開催

 昨年12月7日土曜日、恒例の「細井和喜蔵碑前祭」が開催されました。当日は、「うらにし」の丹後らしく、時々小雨の降る肌寒い天候で、暖をとるための火を焚きながらの開催となりました。
 実行委員長(松本)が祭文を朗読した後、加悦町長西原重一氏(助役代読)、日本国民救援会佐藤佳久氏、宮津市議尾崎邦男氏(共産党)からそれぞれ思いのこもった「碑前に捧げる詞」が述べられました。寄せられた祝電、メッセージ紹介の後、約80名の出席者全員による黙祷、献花が行われました。
 今年度は「京都いしずえ会」、「兵庫いしずえ会」の皆さん約50名が、バスで丹後への旅行をかねて「碑前祭」にご参加をいただき、近年にない盛会となりました。実行委員会としては誠にうれしい限りでした。
 最後に実行委員長より閉会の挨拶をかね、和喜蔵と加悦町のかかわりについてお話をして会を閉じました。
  



       細井和喜蔵を語る会 開催
            
               

 碑前祭終了後、会場を加悦町役場別館に移し、「細井和喜蔵を語る会」を開催しました。バスでお見えの皆さんは、時間の関係で参加していただくことができず、小人数となりましたが、興味深い内容の懇談となりました。
 まず、「顕彰する会」の松本の方から、和喜蔵が各種雑誌に掲載した文章で、一般にまだ内容が紹介されていない次のような作品の紹介を行いました。これらは、大学の図書館等で収集したものです。

@「科学的文芸」(評論 『文芸時代』大14、9月)
A「亀戸雑記」(コラム 『文芸戦線』大14、6月)
B「醜女」(小品 『文芸戦線』大14、7月)
C「電車に乗った夢の中で思ったこと」(随想 『種蒔く人』大12、2月)
D「女工と淫売婦に就て」(評論 『種蒔く人』大12、3月)
E「紡績女工募集の裏表」(ルポ 『解放』大12、3月)
F「小唄と女工心理」(ルポ 『解放』大12、9月)
G「いいものは出ない」(評論 『解放』大14、10月)
H「パワーペレス」(小品 『新人』大14、8月)


 上記の作品の中からAを紹介しましょう。

         「亀井戸雑記」          細井和喜蔵
              
 事いささ舊いが、トツラーの「機械破壊者」が紹介せられて感がいを深うした。あの戯曲に描かれた産業革命前に於ける英国ノッチンガム ゴリチャート・アークライトやエドマンド・カートライトやジョン・ケイ達の紡績機械を手工業者達が破壊に来た史実を僕は大変面白く思って之を一編の戯曲にして再現してみたいともくろみ、大正10年(1921)から翌12年へかけて書いてみたのだ。そしてそれを震災の少し前、秋田雨雀氏に見てもらって、解放社の松本弘二君にたのんで置いたところ、幸か不幸か遂に「解放」は其社の焼失と共につぶれて了い、それなりでその戯曲も世の中へ出ずに原稿の端が赤く煤けてゐる。
 勿論、彼れトツラーと俺とは同じ史実にしても取り扱ふ立場が違ってゐるし、行き方もまた同一ではない。併し彼の作が発表せられたのは1923年とあるから、俺と殆ど同じ位な時に遠きイギリスの過去と現代に於いて数多の労働者が世界を通じて機械の奴隷になるべく余儀なくされて苦しんでゐる様を考へてゐたであろう、偶然な符合だ。
             
 メーデーの前に、メーデー工場のお花見についていつも俺の感じる事を何処かの新聞にちょんびり出してくれないかと思って、萬朝報へ持って行ったがメーデー二日前につき戻された。もうほかへ持って行ってたのんで見るにも日にちが無ので詮方なく諦めざるを得ざらんといふ結果になって原稿は破棄して了った。する(と?)「萬朝報」と書いた新聞配達の絆天を見ても「何だブルジョアにこびる馬鹿新聞めが」と癪にさわる。
             
 支那の兄弟は偉い。上海の大罷業を聞いてからまだ何ぼにもならぬのに、又しても青島で大きなストライキをやっている。日本の工場よりも無論かはった事情はあるであろうが、それにしても一つの工場でやり出すと直ぐ隣近所がおつきあいをするのは見上げたものだ。官憲も公平である。日本の紡織工よ!少し支那の兄弟の爪の垢でもせんじて飲め。
             
 凡そ世の中に公立職業紹介所ほど役に立たぬものはなかろう、殊に東京のそれは一層ひどい。まだ口入屋の方が「金にしたい」という考えがあるからどのくらい(いい?)か判りゃしない。あんなものよりか、3銭5銭8銭均一の、軽便洋食屋を場末へ来て営む方がよっぽどよき社会政策だ。
             
 俺は一向職が見つからぬので、実に困りきっている。根本的失業防止策としてどうしても8時間制を実行しなきゃ米騒動でもおっ始めるより他に道がないじゃないか。
     (『文芸戦線』第2巻、第2号、1925[大正14]年6月1日発行 に掲載)


 上に紹介した「亀戸雑記」は、戯曲『発明恐怖の頃』の執筆に至る経過と、生前に活字にならなかった事情を記していて、大変興味深いものです。また、当時の社会情勢に関わっての和喜蔵の実感が、ボヤきめいた感想として述べられているのも面白く読めます。2003年の日本にいる我々のボヤきにどこか似ているところがあります。
 さて、資料紹介のあと、参加者の自由な発言による懇談に移りました。
 その中から、二つ紹介します。
 まず、加悦町に、俳句を中心に地元関連の文芸作品、書画等を収集する「江山文庫」という文化施設があるのですが、そこの学芸員さんがお見えになり、『女工哀史』を詠んだ短歌作品を紹介して下さいました。
                              
  「女工哀史むずかしけれど繙(ひもと)けばぼろぼろ涙こぼれてやまず」

 この歌は、地元の歌人藤田長治さんの作品で、それを同じく地元の書家小幡さんが書かれたもです。『女工哀史』が単なるルポルタージュではなく、読む者の心を打つ、虐げられた者への共感と慈しみに裏打ちされた憤怒の書であることを改めて感じさせてくれる作品で、参加者一同深く感銘をうけました。
 次に、和喜蔵と直接の関係はないのですが、杉本利一さんが次のような話しを提供してくださいました。
 それは、江戸時代文政年間、、宮津藩で起こった「絹屋、織屋騒動」の話です。宮津城下のある町で、「町中の織手女」がお寺のお堂に寄り集まり、何やら相談したことがバレてしまい、お咎めを受けたという出来事を記載した古文書が残っており、その「女工」たちの「相談」というのは、「織屋」に対する何らかの要求ではなかったかと推察されるというお話でした。『女工哀史』の「前史」のようなものが、江戸時代から当地方にあったらしいことがわかって、新たな興味をかきたてられたひとときでした。
 最後に、2003年度は『女工哀史』を改めて読むことをテーマとしたらどうかという提案を松本の方からしました。また、「語る会」にはできたら講師も招き、もう少し大勢の人にきてもらうようにできないか、など今後の取り組みのイメージを出し合いました。
 あれこれと話しているうち、丹後の短い日は暮れていきました。

           

     和喜蔵顕彰碑前から加悦町、大江山連峰を望む


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