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 「顕彰する会」は、『女工哀史』の著者として知られる、京都府加悦町出身の作家細井和喜蔵の顕彰や、その業績についての研究・普及を目的としています。
 このページには、和喜蔵の人物・業績の紹介や研究成果、顕彰事業の様子などについて、随時掲載しています。

               

不遇だった少年時代

 『女工哀史』の著者として、国内だけでなく外国にもその名を知られる細井和喜蔵(ほそいわきぞう)は、1987(明治30)年京都府与謝郡加悦(かや)町加悦奥で生まれました。和喜蔵が物心つかないうちに、婿養子に来ていた父市蔵は離縁されて細井家を去っており、母りきは彼が6歳の時に入水自殺をしてしまいます。その後、祖母うたの手で育てられ小学校に上がりますが、その祖母も彼が13歳の時に病死し、和喜蔵は尋常5年生で退校を余儀なくされます。そして、上隣の機屋(はたや)、通称”駒忠(こまちゅう)”の小僧となったのを皮切りに、そのころできた三丹電気会社の油さし工になるなど、生活のためいくつかの仕事場を転々としたようです。おそらくは19歳のころ、意を決して大阪に出るまでの人格形成期を、和喜蔵は加悦谷(かやだに)で過ごし、貧しさゆえのあらゆる辛酸を舐めたのです。このような中で彼は、小説『奴隷』や戯曲『無限の鐘』などの後の彼の文学の源泉となる体験を蓄積し、資質を培っていったと思われます。

大阪時代−貧困の中の”疾風怒涛”

 大阪に出た和喜蔵は、1920(大正9)年に東京に出るまでの約4年間、鐘ヶ淵紡績その他の紡績工場で織機の機械工として働きました。その間、職工学校の夜学へ通って勉強しています。ある時、鉄鋼部のボール盤で左の小指をめちゃくちゃにされますが、何の補償もないばかりか「ぼんやりしているからだ」と叱り飛ばされても、少しの疑問も持ちませんでした。しかし、恋したある女工の手がどす黒く節くれだっているのを見て、美しい衣服を織るために幾万の若い女性が犠牲になっている現状に疑問を抱くようになります。そこで彼は、女工の労働を軽減する新しい織機の発明を真剣に考えますが、自分の発明アイデアと全く同じ発明が外国の工業雑誌にのっているのを見てひどく落胆します。そこに失恋が追い討ちをかけて生きる希望を失い、海に身を投げて自殺を試みますが失敗し、警察に保護されてしまいます。その一方で彼は労働組合運動にもかかわるようになり、「実行運動」にたびたび失敗して、会社側のブラックリスト(黒表)に載せられ、関西では就職できにくくなってしまいます。そこで未知の東京に出て文学の道で再出発を志そうと思い立ったのです。
 大阪でのこれらの事は、『女工哀史』自序(以下「自序」と略称)、『どん底生活と文学の芽生え』などに和喜蔵自身が書いていることですが、自伝的小説『奴隷』や『工場』の内容を重ね合わせると、もう少し豊かに大阪時代の和喜蔵を思い浮かべることもできます。和喜蔵はこの時期、苦労しながらも様々の試行錯誤と思想遍歴と失恋の体験を経ながら、自らの進むべき方向を探り当てていきました。大阪時代は、いわば彼にとっての゛疾風怒涛の時代”であったと思われます。彼はここで、高揚期を迎えつつあった労働組合運動と出会い、社会正義の実現のために、大資本による過酷な労働者に対する搾取そのものを告発し、それと対決する道を選びました。彼は、1919(大正8)年3月19日、友愛会大阪伝法支部発会式をかねた労働問題演説会に参加して、会長S氏の講演に感激し、友愛会に入会したと推察されます。また同時に、彼は自分自身の文学への欲求に目覚め、文筆によって労働者の置かれた過酷な実態を描き、「次の時代に来る、輝かしい愛の人間社会を作るための礎となろう」(『奴隷』)と決意します。

東京時代−『女工哀史』の執筆と早すぎる死

 1920年2月、23歳の和喜蔵は初めて上京し、東京モスリン紡績KK亀戸工場に入ります。翌1921(大正10)年5月には、東モスの労働組合幹部の紹介で、この時すでに東モスの紡績女工であった岐阜県揖斐郡出身の堀としをと出会い、ベーベルの『婦人論』をプレゼントしています。そして、学習意欲に燃えた和喜蔵は、この年9月開校の日本労働総同盟の「日本労働学校」第1回卒業生となります。このころの和喜蔵のエピソードとして、夜は昼間の疲れで眠くなるので、ときおりキリで膝を刺しながら勉強した、ということが伝えられています。これは実際は、「エンピツの先で膝をつついたので、ズボンの膝のところが穴だらけだった」というのが本当のようですが(犬丸義一・中村新太郎『物語日本労働運動史』)、彼の猛烈な勉強ぶりがうかがえます。
 1922(大正11)年3月ごろ、亀戸工場で争議が起こり、それまで「ネコをかぶっていた」和喜蔵もこれに参加して労働側が勝利します。しかしその後「幹部の党派争い」から「無理解な仲間たちに散々排斥」(「自序」)されたり、「長年の工場生活から来た痼疾」(同)のために退社します。このころ堀としをと結婚しています。同じくこのころから文筆活動に専念し始め、前年より創刊されたいた雑誌『種蒔く人』に短編小説やエッセイをを発表するようになります。またこの前後、和喜蔵は、新進作家として活躍し始めていた藤森成吉氏を訪ね、『女工哀史』の「何十枚もの目録」を示して出版について相談しています。藤森氏は「1日も早く実行するように勧めた」(『女工哀史』まえがき)といいます。和喜蔵はこのころから、「石にかじりついてもこれ(『女工哀史』)をまとめようと決心」(「自序」)していたのです。
 1923(大正12)年になると、友人らと詩誌を発行して詩を発表したり、『種蒔く人』に寄稿したりする一方、7月から本格的に『女工哀史』執筆に入ります。そして、「飢餓におびえつつ妻の生活に寄生して」(「自序」)前半を書き上げたところで、9月1日、関東大震災に遭遇するのです。妻のとしを(後に再婚して高井姓)の回想によると、住んでいたアパートは倒壊や焼失をまぬがれたものの、友人山本忠平(陀田勘助)の「早く逃げないと殺されるぞ。南葛労働組合の幹部は全員殺された。…アパートへ荷物を取りに行ったらつかまるぞ。」という忠告に従って、原稿とわずかな身の回り品を持って、二人は東京を離れます。そして、避難列車の屋根に乗り込んで、兵庫県能勢の山中に逃れ、猪名川製織所という小さな工場に入り、1日12時間労働する傍ら『女工哀史』の後半を書き継ぎます。このころ、東京の改造社からかなりの額の原稿料が和喜蔵あてに郵便局に送られてきます。それを察知した警察がさっそく「どこからそんな金が入ったのか」と調べに来たため、「ここにいたら危ない」と言って和喜蔵は上京を急いだといいます。(高井としを『わたしの「女工哀史」』)
 1924(大正13)年1月、『女工哀史』完成のため和喜蔵夫妻は再び上京します。4月になってやっと全部をまとめあげ、藤森成吉氏に改造社への出版の斡旋を依頼します。藤森氏はさっそくそれを改造社山本社長のところへ持ちこみ、原稿買い切りの条件で発表の快諾を得ます。そして、秋になってようやく雑誌「改造」誌上に『女工哀史』の一部が3回に渡って掲載されたのです。このころ、和喜蔵は長編小説『奴隷』、『工場』、戯曲『無限の鐘』などの構想と執筆に着手します。その傍ら、この年から翌年の死の直前、7月ごろにかけて、和喜蔵は『文壇』、『鎖』、『無産詩人』、『文章倶楽部』、『都新聞』、『文芸戦線』、『文芸市場』などの雑誌、新聞に詩、随筆、評論、短編小説を、まるで生き急ぐかのように矢継ぎ早に発表しています。
 1925(大正14)年、和喜蔵28歳。5月12日、『女工哀史』の「自序」を執筆します。7月18日発行で、改造社から『女工哀史』が出版され、同23日風雨の夜、本郷3丁目の燕楽軒で出版記念会が開かれます。このころ和喜蔵の身体は既に無理がたたって、深く病魔におかされており、出版から1ヶ月後の8月18日午後6時、南葛飾郡亀戸町柳島の博愛病院で、肺結核と腹膜炎のため、28歳と3ケ月の生涯を閉じます。山本忠平ら友人が「南無無産大居士」と戒名を付けました。臨終の時の言葉は「残念だ、仕事が残っている。子供を頼む。」(高井、前掲書)でした。この時妻としをのお腹には子供が宿っていたのです。しかし、残念なことに9月になって生まれた子供は死産でした。
 『女工哀史』出版に先立つ6月24日、和喜蔵は仲間に宛てたメッセージ「お礼と宣言とお願い」を執筆します。彼はこの中で、『哀史』出版のために多数の仲間にお世話になったお礼を述べ、病気等の事情によってもとの仕事への再就職がままならず、やむなく文筆によって生計を立て、「文芸による職工の水平運動」を実践する決意を述べて、「労働者なら実行運動をしろ」と批判する仲間に理解を求めています。皮肉なことに、この文章が掲載されたのは、10月1日発行の『文芸戦線』(和喜蔵追悼特集号)でした。
 和喜蔵は死ぬ前、藤森氏に「『哀史』が出たから、もう死んでもいい。」と漏らしたといいます。実に和喜蔵の人生はこの一書のために準備され、その命はその1行1行のためにすり減らされたといっても過言ではないでしょう。

「死せる和喜蔵、生ける資本主義を走らす」(藤森成吉)◆

 和喜蔵の主要な文学作品は、ほとんど死後世に出ました。1926(大正15)年には、自伝的小説『奴隷』、その続編で『女工哀史』の小説版でもある『工場』、表題となった戯曲のほか11篇の小説、随筆、戯曲を収めた『無限の鐘』が改造社から出版されています。また、10月発行の『文章倶楽部』に、和喜蔵の作品の中でも傑作といっていい短編『モルモット』が「遺稿」として発表されています。
 『女工哀史』は、「関係者の予想に反して、それは異常な売れ行きを示し、何回となく版をかさね」(藤森氏「まえがき」)ます。原稿は買いきりだったわけですが、改造社の山本社長の好意で、その印税相当分が「細井和喜蔵遺志会」(和喜蔵の遺友達によって作られた会)に渡されます。そのお金は繊維産業関係の労働運動のために役立てられました。また、それをもとに、東京青山の墓地に「解放運動無名戦士の墓」が建てられました。そこには、和喜蔵とともに、労働運動や民主運動の途上でなくなった多くの有名無名の人々が葬られていて、現在も毎年3月18日には、慰霊合葬追悼会が盛大に行われています。
 『女工哀史』は、その売れ行きが示しているように、大きな反響を巻き起こしました。「○○哀史」という言葉が一種の流行語のようにさえなったのです。今でも、細井和喜蔵の名前は知らなくても、『女工哀史』という言葉を知っているという人は多いのではないでしょうか。戦後も、女性の非人間的で過酷な労働実態が社会問題化するたびに、この言葉が幾度となく用いられてきました。そして今や、小・中・高を問わず学校の社会の資料集には、『女工哀史』の一節が収録されていることが珍しくありません。
 さて、『女工哀史』出版の約2年後、1927(昭和2)年5月、東京モスリン亀戸工場でストライキが起こり、初めて女工の外出の自由を認めさせたことが、少し詳しい日本史の年表にはたいてい載っています。和喜蔵は『女工哀史』の中で、工場側の女工に対する外出制限や読み物への干渉、手紙の没収に至るまでのひどい自由抑圧の実態を、亀戸工場の監督者の実名まで挙げて具体的に鋭く告発しています。これが、工場側に対する有形無形の圧力になったことは容易に想像できます。
 『女工哀史』が、働く人々の労働条件の改善や権利前進の上で、どれほど大きな役割を果たしてきたか、それは、藤森成吉氏の言を待つまでもなく、多くの人が認めるところではないでしょうか。
 

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